ENo.0239　多々良　小鞠

伏せられた頁を捲る。
旦那様のお手跡が並んだ紙面。
二人流行病に倒れた頃、しばし空白が続き、そして再開される。


『　小鞠が亡くなつた。
　　熱に浮かされながらでさえ、私の事ばかり案じながらの死であつた。
　　十余年、屋敷の中の狭い世界に生きてきた娘。私の半身。
　　半身をもぎ取られ、私も又、世界が暗く見える。
　　世界など滅びるなら滅びよと、思わずにいられない。
　　だが、私は小鞠のいないこの世界でまだ生きている。
　　そう、少なくともあと十五週は。　』

頁を捲る。

『　霊堂に花が供えられていた。
　　暇を出した使用人の、誰かの仕業であらうか。
　　小鞠と、私の好きな花である。
　　何を見、何を聞いても小鞠の不在が胸に響く。　』

頁を捲る。

『　小鞠を失って暫く経つ。
　　だが、まだ屋敷には小鞠の気配が残つている。
　　不意に視界を過る気さえする。
　　私は幽霊を見ている。
　　幽霊としか呼ぶべくもないものを。　』

頁を捲る。

『　小鞠の部屋に、小鞠の存在を感ずる。
　　未練がましく小鞠の部屋を訪れる私を、見つめるように。
　　閉めた筈の襖が微かに開いた気もする。
　　私は気が違つてしまつたと誰かが言えば、私は信じるだらう。
　　だが、確かに小鞠は現れているように感ずるのだ。　』

頁を捲る。

『　小鞠の位牌を用意する。
　　四十九日を迎えて猶、小鞠の影は其処此処に現れる。
　　又、現れる頻度、時間共に長くなつたように感ずる。
　　未練だらうか。 小鞠は未だ若かつた。
　　或いは、私を恨んでだらうか。　』

頁を捲る。

『　幽霊が、遂に私の名を呼んだ気がする。
　　振り返れど、其処には誰も居りはせぬ。
　　真実呼び声であったかは定かでない。
　　しかし、確かに小鞠の声であつたと思はれる。
　　やはり幽霊は本当に小鞠である、そう信じても良いのだらうか。　』

頁を捲る。

『　本日ついに、小鞠の幽霊に手を触れた。
　　冷えた肌、冷えた唇。内さえも冷たかつた。
　　私を呼ぶ声だけが、いつそ生前よりも熱烈である。
　　死んだ者との交わりは罪深いだらうか。
　　だが、私の中には喜びと悲しみが絶え間なく溢れている。
　　再び小鞠に、例え一夜でも触れることができた喜び。
　　同時に、冷たい膚に小鞠の死を再度突き付けられる。
　　私はやはり、あの時小鞠と共に死ぬべきであつた――　


――指先が痺れるような感覚。
わたくしは、ずっと旦那様を幽霊だと思っておりました。
けれども。

あの、溶かされてしまいそうな熱。
生命の熱さ。

なればわたくしは。
わたくしは――

――それは、さやさやと揺れる柳の下。

井戸の傍、女がひとり。
女は客を待っているようにも、ただただ無為に佇んでいるようにも見えた。
半ば伏せられた瞳と、かすかに開いたくちびる。

あなたは女に話しかけることも、そのまま立ち去ることもできる――望むまま。