ENo.0239　多々良　小鞠

「旦那様、……小鞠でございます。」

掠れるような、小さな声でございました。
実際のところ、呼びかけとは言えないような声。
きっと、最初にお屋敷に来たときよりもひどい。

けれど幽霊は、ほんのかすか、肩を震わせたように見えました。

互いの間に流れる、奇妙に張り詰めた数秒。
永遠にも感じられるような、そんな時が過ぎて。

やがて幽霊は、静かに、静かに振り返ります。

左の足がわずかに下がる。
深い色の御髪が揺れて。
ゆっくりと半身がこちらを向きかけ――

――そして、消えました。

お顔が見える、その寸前のこと。

すいと掻き消えたその姿を、つい一歩、追いかけようとして。
わたくしは、無意識に息を詰めていたことに気づきました。
胸の前で握り込んだ手のひらが、じっとりと汗ばんでおります。
その場に崩れ落ちそうになる、震える足。

お顔が見えなくて、良かったのか、悪かったのか。

お顔が見えてしまったら。それが旦那様のものだったら。
わたくしはきっと、泣いて縋らずにはいられないでしょう。

旦那様。
わたくしから、あんなにも唐突に引き剥がされてしまった方。
声が届くものならば、どれだけでも、愛しておりますと伝えたい。
例えそれが最後になるのだとしても、構わない。

そう、声は、届くようでした。
わたくしの呼びかけは、確かに、届いたようでした。
あんな小さな声でさえ。

でも、わたくしだって、きっと、そうです。
今、旦那様のお声がするのなら、どんな小さな声でもいい。
きっと聞き逃したりはいたしません。

旦那様だってきっと、わたくしの声を、聞いてくださる。
幽霊がほんとうに、旦那様なら。

わたくしはまた幽霊に声をかけるべく、その時を待ちました。

一瞬を過ぎていく影に声をかけるのは難しいことでございます。
日々は忙しく、幽霊ばかりを探しているわけにもまいりません。
そうしていたくとも、それではやがて、世界が終わってしまいます。
たとえ微力でも、わたくしはまだ、お店を開かねばならないのです。

そのようにして幾日かが過ぎます。

そして、夜。
わたくしの部屋の窓辺に。

再び、幽霊が立っていました。

――それは、さやさやと揺れる柳の下。

井戸の傍、女がひとり。
女は客を待っているようにも、ただただ無為に佇んでいるようにも見えた。
半ば伏せられた瞳と、かすかに開いたくちびる。

あなたは女に話しかけることも、そのまま立ち去ることもできる――望むまま。