ENo.0239　多々良　小鞠

わたくしがまずしたのは、霊堂に花を用意することでした。
一番新しく、そこで悼まれるべき方のために。

これまでも、霊堂のお世話を疎かにしたことはございません。
とはいえ、多々良のお家の方々は、わたくしには縁の遠い方ばかり。
旦那様へ連なる方への感謝はあれども、それはある意味、通り一遍の死者への敬意。
具体的な祈りを伴うものではございませんでした。

けれどもわたくしは、おそらくは生まれて初めて、心底からの祈りというものを知りました。
知ってしまったのです。切望とも、希求とも呼ぶべき思いを。
そのような思い、けっして知りたかったわけではございませんのに。

霊堂の静けさの中、枯れたはずの涙が滲む心地がいたします。
いっそもう、いつまでも泣き暮らしていたいとさえ思いました。
ただ、ただ旦那様との思い出に、そしてこの悲しみに浸っていられたら。

わたくしは、火の付いた線香がしずしずと燃えてゆくのをぼんやりと眺めておりました。
お店の準備は整っております。あとはわたくしが立ち上がって、扉を開くだけ。
にも関わらず、わたくしの足はぐったりと萎えて、立ち上がろうとしてはくれません。
まるで、心に開いた風の通り道が、わたくしの熱意から温度を奪ってしまうよう。

そのような時がどれだけ過ぎたか……線香が燃え尽きて、しばらく経っておりました。

ふう、と溜息をつくような気配を感じたのです。
霊堂の入口近く、閉め切ってはいなかった戸の影に。
わたくしは勢い良く振り返りました。

葬儀の後には使用人もみな去って、屋敷の中にはわたくしひとり。
なのに、誰がいるというのでしょう。
わたくしの弱い心は、真っ先に旦那様を思いました。思ってしまいました。
今までのことはなにもかも夢で、小鞠、と呼ぶ声が今にもするのではないかと。

もちろん、そんなことはございません。

振り返った先の空虚に、わたくしは顔を歪めました。
自分でも、ひどい顔をしたと思います。
失望。怒り、悲しみ、己への嘲り。さまざまの思いが綯い交ぜになって、ひどく苦しくて。
身勝手に傷ついたわたくしがくちびるを噛み目を伏せた、その瞬間のことでした。

足元。

旦那様のお好きだった紺藍のお着物の裾。白い足袋。

それだけが、半ば以上伏せられた視界を過ぎってゆきました。

はっと視線を上げても、もうそこには何もなくて。
軽く開いた戸の、き、とかすかに揺れるだけ。

わたくしは大急ぎで立ち上がりました。
足が萎えていたことなどどこかに忘れて廊下へと飛び出し、旦那様の影を探しました。
あるはずのない影を。

そう、あるはずがございません。
その時は、ただ幻を見たのだと思いました。
わたくしの、旦那様を求める心が見せたものだと。

わたくしは項垂れ、惰性のようにお店を開き、商売を始め――
――視界の端々に、紺藍のお着物を、揺れる髪の先を、見るようになりました。

いつかの面影を宿した、幽霊《ゴースト》を。

――それは、さやさやと揺れる柳の下。

井戸の傍、女がひとり。
女は客を待っているようにも、ただただ無為に佇んでいるようにも見えた。
半ば伏せられた瞳と、かすかに開いたくちびる。

あなたは女に話しかけることも、そのまま立ち去ることもできる――望むまま。