ENo.0239　多々良　小鞠

過去。まだ、多々良のお屋敷に来たばかりだったことのこと。
旦那様のお背中に声をおかけするのが、とても怖かった。

疎んじられるのではないか。
邪魔にされるのではないか。
望んだ結婚でなかったのは、旦那様とて同じこと。
わたくしという妻は、旦那様にとってどんな存在だろうかと思い悩む日々。

嫁いだばかりの頃の記憶は、旦那様の後ろ姿ばかりでございます。
ちょうど、幽霊の後ろ背を追うばかりの、今と同じように。

あの頃は、旦那様のことを信じられませんでした。
優しい言葉をかけてはくださったけれど、まだ、見知らぬひと。
いつのころ、旦那様をお呼びすることをためらわなくなったのか……。
わたくしはもう覚えておりません。
遠い昔のことにも、つい最近のことのようにも思えます。

十余年。
けっして長くはなかったけれど、短くもなかった月日。
重ねてきた時は、けれど、わたくしの肩にはとても、重い。
いとおしい。こんなにも。

だからこそわたくしは、幽霊にも、向き合わねばならないのだと思います。

幽霊の現れる頻度は、どんどんと高くなってきております。
廊下の影、お台所。柳の下にも、旦那様のお部屋にも。
もう、幽霊を見ない日はございません。
けれどそれは、いつも、後ろ姿でございます。
あるいは、通り過ぎていく一瞬の影ばかり。

わたくしは、幽霊に声をかけてみなければ。
いつか、旦那様に声をおかけしたように。

声をかけても、なんの反応もないのかもしれません。
振り返ってくださっても、本物の旦那様ではないのかもしれません。
でも、あるいは、そこに、ほんとうの旦那様がいらっしゃったら……。
いずれにしても、わたくしはいったい、どうしたらいいというのでしょう。

旦那様、小鞠でございます。

たった一言、そう告げてみればいいだけのこと。
お顔を見せてくださいませんか、と。
こちらを向いてくださいませんか、と。

でも、わたくしには、覚悟が足りません。
振り返ったお顔がどんなものであろうと、受け止める覚悟が。
なのにもう、見て見ぬふりはできないのです。
旦那様の影を求めているのか、それに怯えているのか。
そんな生活には、もう、耐えられそうもございません。
わたくしはただ、旦那様を愛していたい。
その影に迷うようなことは、もう、したくないのです。

そして今日も、幽霊は現れます。

霊堂の前に、佇む後ろ姿。
それだけ見れば、旦那様以外の何者でもない……。

「旦那様、……小鞠でございます。」

――それは、さやさやと揺れる柳の下。

井戸の傍、女がひとり。
女は客を待っているようにも、ただただ無為に佇んでいるようにも見えた。
半ば伏せられた瞳と、かすかに開いたくちびる。

あなたは女に話しかけることも、そのまま立ち去ることもできる――望むまま。