ENo.0239　多々良　小鞠

現れる幽霊は、ただの幻影です。
わたくしを見てくださることも、声を掛けてくださることもない、まぼろし。
けれども確かに、旦那様のお姿をしているのです。

幽霊を視界にとらえるたび、待って、と叫びたい気持ちがいたします。
なのに、声を上げる間もございません。ほんとうに一瞬のことなのです。

誰もいないお屋敷の、うつろから、うつろへ。
廊下の角、障子の向こう、柳の木陰を、すいと通り過ぎては、消えてゆく。

まぼろしの存在は、旦那様のご不在を、わたくしにより鮮明に突きつけます。

わたくしは、己の抱えた痛みと向き合わねばなりませんでした。
明るい場所にいるのがひどく不釣り合いに思え、お蔵の中に逃げ込んだ日もございます。
霊堂で、ひたすらに祈った日もございます。
それでも日はめぐり、時は過ぎてゆくばかり。

旦那様がいらっしゃらなくても、少しずつ、日々は積み重なって。

なにより、そんな日々に慣れていくわたくし自身が、我がことながら、とても、辛い。
いつか旦那様のことを思い返さなくなる日が来るのでしょうか。
この欠落が、日常に溶け込んでしまう日が。

ああ、いやだ。
なんて、おそろしい。

わたくしはずっと旦那様と寄り添っていたかった。
今だって、もしも許されるものならそうしていたい。

世間様では、死がふたりを分かつまで、などと申すようでございます。
分かたれてはじめて、それではけっして満ち足りることなどないと知りました。
死してのちも、永遠に、とこしえに。ああ、望みのはてしないこと！

己がこんなにも欲深だったことを、今までどうして知らずにこれたのでしょう。
いいえ、本当はわかっております。
わたくしは満たされていたのです。十五の時分から、旦那様によって。

すっかりおとなになったと思っておりましたのに、そんなことはございませんでした。
わたくしは旦那様がいなければ、寄る辺ない十五のこどもと変わりございません。
多々良のお家に参りましたときから、なにもかわっていやしないのです。
不安で、心細くて、誰かに縋りたくてたまらない。
旦那様の御手で、そっと守られていたい。

そう、守られていたのです。土鈴の中で眠る玉のように。
わたくしは旦那様の御手の中で、ときにやすらぎ、ときに跳ね返り。
からころと、からころと、歌っていればよかったのでございます。
わたくしは、旦那様という殻がなければ歌うことひとつ満足にできはしません。
できはしないということを、知ってしまいました。

こんなわたくしだから、旦那様がやすらげずにいるのでしょうか。
それともこの身の弱さに、悪魔かなにかが目をつけたのでしょうか。

幽霊は本当に幽霊《ゴースト》なのか、それとも、わたくしの業の生んだものか。

なにしろわたくしは、魔の王を名乗るようになりました。
徳を積むだけでなく、業を重ねる存在にもなったのでございます。
否、わたくしはもとより、業深い女だったのやもしれません。
だからこそ魔王の名乗りも、するりと馴染んで。

おそろしいのは、旦那様が、魔王となったわたくしのことも、愛してくださるかどうか。

訊ねてみたくとも、幽霊は待ってもくれないのです。
それはいつも、消えてゆくだけ……。

――それは、さやさやと揺れる柳の下。

井戸の傍、女がひとり。
女は客を待っているようにも、ただただ無為に佇んでいるようにも見えた。
半ば伏せられた瞳と、かすかに開いたくちびる。

あなたは女に話しかけることも、そのまま立ち去ることもできる――望むまま。