ENo.0239　多々良　小鞠

多々良の家に嫁いだのは十五の頃。
柳の揺れるお屋敷がまだよそよそしい顔をしていたのを、覚えております。

互いに好いての結婚ではございませんでした。
お家の決めた相手同士、祝言の前には三度ほど、お顔を合わせたきり。
そんな方と一生を共にすると決まって、わたくしは不安でした。
胸がどきどきとして、それでいて、喉には何かがぎゅうと詰まったようで。

旦那様はわたくしの不安をご存知だったのか、最初の晩におっしゃいました。

小鞠、あなたは私の妻となったのだから、何も心配に思うことはないのだよ。
この柳の下の屋敷で、あなたはこれから、私と、生きていくのだよ、と。

ええ、旦那様はお優しい方でした。
わたくしのことを小鞠、小鞠と可愛がってくださり、また濃やかに目を配ってくださって。
屋敷に慣れぬ頃のわたくしは、幾度となく旦那様に手を伸べていただきました。

そのようにして時が経ち、いつしかわたくしたちは、夫婦としての寄り添い方を覚えました。
穏やかに、ゆっくりと、愛と呼ぶべきものを育んで。
淡く色づくような、かけがえのない日々。それは美しく、喜ばしいものでした。

十余年の、ああ、思い返してもなんと愛おしい暮らしでしょう。
わたくしたちは互いを慈しみながら、時を重ねてまいりました。
そして、その営みが、やがて互いに老いてゆくまで変わらぬものと信じておりました。

そう、何を欲張ったわけでもございません。
なのに、世の中はひどく、ひどく無情で。
わたくしたちは二人、病に倒れることとなりました。

その後の記憶は、曖昧でございます。

熱に浮かされた数日。
並べた布団、すぐ隣に見聞きする、旦那様の苦しそうな息遣い。赤い頬。
手を差し伸べたくとも、わたくしの腕も、病に冒されてひどく重くて。

そうしてふと気づくと、ひとりでございました。

葬儀も終わり、屋敷の中は片付けられて、なにもかも元通りのような気がしたものです。
でも、旦那様がいらっしゃらないのです。どこにも。どのお部屋にも。
旦那様がお好きだった庭の柳の下、井戸の傍にも、ただ葉の陰が落ちるばかり。
わたくしだけが、静かな屋敷の中に残されておりました。

心はすうすうと風の通るようで、寄る辺のなさが痛いほどでございました。
屋敷の庭で揺れる柳が、嫁いだばかりの頃のように他人の顔をしてみせます。
わたくしはその枝の下で泣きました。涙が枯れ果てるまで。

わたくしたちに子はありませんでした。
親兄弟といったものも、みなこの十年の間に亡くなるか、縁が絶えております。
わたくしは正真正銘、ひとりきりになってしまったのでございます。

折しも、世界は再び滅亡のふちにあると聞き及びました。
いっそそれでも良いのではないかと、思ったことも事実でございます。
けれども、このお屋敷には思い出が詰まっております。溢れるほどに。
そのすべてを失くしてしまうのは、わたくしには、きっと耐えられないでしょう。

だからわたくしは、お店を開くことにしたのです。
お屋敷の一角を開け、魔王と呼ばれるものになると、そう決めました。
わたくしはもう、この世界から、お屋敷から、何ひとつ失われてほしくなかったのです。

――それは、さやさやと揺れる柳の下。

井戸の傍、女がひとり。
女は客を待っているようにも、ただただ無為に佇んでいるようにも見えた。
半ば伏せられた瞳と、かすかに開いたくちびる。

あなたは女に話しかけることも、そのまま立ち去ることもできる――望むまま。