ENo.0239　多々良　小鞠

旦那様がわたくしを慈しんでくださるとき、わたくしの心には花の咲くようでした。
春のはじめ、梅の花がひとつほころぶようにささやかに、けれど確かに愛おしく。
そうしてわたくしは、美しい春の中を生きるように過ごしてまいりました。
花には盛りがあるものだと、そしていつかは散ってしまうものだと、知らぬまま。

今、わたくしはその盛りを過ぎ、少しずつ散っていく花を眺める心地でございます。

思い出が遠ざかっていく寂しさ。辛さ。
ひとひら花の散るたびに、締めつけられるような悲しみがわたくしを訪います。

もう、わたくしに花を咲かせてくださる方はいらっしゃらない。
いらっしゃらないのに、その影だけが、わたくしに叶わぬ期待をもたせるのです。

このまま幽霊が長く見えるようになれば、いつか。
いつか、またお言葉を交わせるようになるのではないかしら。
いつか、またあの御手で触れていただけるようになるのではないかしら、などと。

わかっております。
期待すればするほど、辛いだけ。
そんな日が来ると思うのは、間違っております。
間違って、いるのです。

けれど思い出は、手にとって触れなぞるたび、風化していくものでございます。
砂の絵を崩さずに触れることはできないように、記憶の絵もまた。

そして幽霊は、記憶の砂絵を掻き乱す存在です。
なにしろそれはあまりに、旦那様のお姿、旦那様のふるまいをするのです。
そのせいでわたくしはずっと、戸惑いの中におります。
幽霊が現れるたび、それは、旦那様の思い出として積み重なるようで。

でも、幽霊は本当に旦那様でしょうか。
わたくしには、わからない。
ほんとうに、わからないのです。

わたくしの部屋の前で静かに佇んでいる幽霊が、旦那様かどうかなんて。

わたくしは旦那様に笑っていていただきたい。
微笑みながら振り返っていただきたい。
小鞠、と、少しだけ楽しそうなお声で、わたくしを呼んでいただきたい。

でも、声を掛けられない。

わたくしは凍りついてしまいました。
その背が、あまりにも悲しげで。

わたくしは、旦那様のそんなお姿を見たくはございませんでした。
どんな記憶の中でだって、あんなに悲しげな旦那様は見たことがございません。

やがて幽霊は、項垂れたまま、すいと廊下の奥へと消えていきました。
わたくしを、置いて。

待って、と口をついたのは、幽霊が消えてしばらく経ってからでした。
待って、行かないで。
そんなふうに悲しみに沈んで、どこへお行きになるというの。

廊下に立ち尽くしたまま、わたくしはじっと、幽霊の消えた方を見ておりました。

追いかけたい、そんな気持ちがふつふつと湧いてまいります。
でも、わたくしにその勇気はございませんでした。

わたくしは、追いかけた先、そこに誰もいないことをどこかで知っておりました。
その空白に、きっとわたくしは耐えられません。

自室に入る前、ちらりと見ずにはおれなかった、明かりの消えた廊下の奥。
そこに幽霊はいるのでしょうか。
それとも、喪失の悲しみだけが横たわっているのでしょうか。

――それは、さやさやと揺れる柳の下。

井戸の傍、女がひとり。
女は客を待っているようにも、ただただ無為に佇んでいるようにも見えた。
半ば伏せられた瞳と、かすかに開いたくちびる。

あなたは女に話しかけることも、そのまま立ち去ることもできる――望むまま。