ENo.0239　多々良　小鞠

幽霊を意識の隅に留めながらも、そればかりに気を取られているわけにはまいりません。
お屋敷を荒らすわけにはゆきませんし、お店だって開かねばなりません。
旦那様がいらした頃よりも、一日は慌ただしく、せわしい。

いっそ幽霊がいなければ、この痛みから目を逸らしていられたかもしれません。
けれど、それはいるのです。わたくしにとっては、確かなものとして。
現れ、消えては、わたくしを掻き乱す。
胸の痛みは、休まる暇もございません。

それに、ああ、気のせいかもしれません。
でも、幽霊は少しずつ、少しずつ、長く見えるようになってきたように思われます。
視界の端にふと現れ消えるだけだったものが、すいと視界を横切るように。
あるいは一瞬、立ち止まるように留まって。

そして今日はそれが、旦那様のお部屋に現れました。

薄く開いた襖の隙に、佇む旦那様の後ろ姿。
わたくしは思わず息を呑みました。
見なければよかったとすら思いました。
こんな、ほんとうに、旦那様のようなお姿。

ほんの数秒佇んだあと、そのお姿は、お庭に降りるようにしてふと溶け消えました。

お顔は見えませんでした。見えなくてよかったと思います。
お顔を拝見してしまったら、わたくしは、きっと幽霊とは思えなくなってしまうでしょう。

影は何度も、何度も、わたくしの前で消えてゆきます。
わたくしはそのたびに、旦那様を失う心地がするのです。
もうとっくに失われたはずのものが、何度も繰り返し、この手からこぼれていくような。

どうして留まってくださらないのでしょう。
どうして、わたくしのもとを去ってしまわれたのでしょう。
どうして、どうして。
押さえた胸に、行きどころのない、詮のないどうしてが溢れかえります。

これは、愛おしさ？ それとも、執着と呼ぶべきでしょうか。

温かかった愛が冷え固まって、別のものになってしまうかのよう。
その熱を留めようとすればするほど、どろどろとした執着になってしまう。
わたくしには、失った方を変わらずに愛し続ける強さが、ない。

くちびるを噛んで、幽霊の立っていた障子の傍に、わたくしも同じように立ってみます。

旦那様はよく、ここから、こうしてお庭を眺めていらした。
蓮の咲く池と、柳。旦那様がお好きだった景色。
小鞠、ごらん、と見せてくださったことのある眺め。

こちらにひとつ、そちらにひとつ。あちらにも、ひとつ。
お屋敷の中には、旦那様のお好きだったものが残っております。
お庭の景色、硯箱、忘備録、菓子の鉢、ほかにもたくさん。
そうしたものに触れるたび、息が詰まります。

せめてわたくしが守らなければ。

旦那様の愛したものを、わたくしもまた愛したいのです。
だってわたくしは、あのお優しい指先が触れる幸せを、覚えております。
さらりと乾いた手のひらが頬を撫でていく、あのやすらぎを。

慈しみ深い方。
愛のなんたるかを、わたくしよりもよほどご存知だった方。

ああ、わたくしもあんなふうになれたら！
わたくしの中に、旦那様のありさまを、そっと抱いていられたら！

――それは、さやさやと揺れる柳の下。

井戸の傍、女がひとり。
女は客を待っているようにも、ただただ無為に佇んでいるようにも見えた。
半ば伏せられた瞳と、かすかに開いたくちびる。

あなたは女に話しかけることも、そのまま立ち去ることもできる――望むまま。