ENo.0255　アスロェ

　僕はフカフカのソファーに座っていた。
そして眼の前にはケーキが置かれている。
まるであの日の再現の様だ。

　普遍に点在する仮宿の魔王
僕は彼に感情を売ることで魔王として店を開く為の資金を得た。
感情を売ることに後悔は無かったし、感情を売った後も勿論後悔は無かった。
だから、この城に訪れることはないだろうと思っていた。
しかし、彼の居城に今、僕は居る。

…
……
………

「なぜなら、本当に感情を全て無くせば人はその時点で終ってしまう。
　魔王として生きるなんて意欲さえも失われるだろう。
　人というものは、感情を燃やしながら動くマシンのようなものなのさ。」
　　
「……。」

「私が買い取れるのは、表層部分…いや、それでも十分な量だが、そんなものだ。
　だから、キミの奥底には感情の欠片が残される。
　その感情は、永遠にキミの中で眠り続けるかもしれないし、何らかの形で、キミに今日の選択を後悔させるような、激しい力を持つかもしれない。
　それだけは覚えておくんだ。」

………
……
…

　彼の言葉そのままではないが…僕は感情を取り戻そうとしていた。
ドアが開く音がして、仮宿の魔王が姿を現した。

「久しぶりだね。
　感情を買い戻しに来たか。」

「はい。」

　仮面を取り外しテーブルの上に置く。
仮面には幾つもの罅が入っていた。

「感情を無くした者の為の笑顔の仮面だが。
　感情が有る者が身に付ければ、仮面には大きな負担がかかり壊れてしまう。
　キミの心の奥深くに眠っていた感情が何度も呼び起こされたのだろう。」

「僕は何故魔王に拘っているのか。
　感情が有る時の僕は知っていたように思えます。
　それを思い出したいと思いました。」

「私が感情を買ったのは確かだが、記憶までは取り上げていない。
　だから、感情を取り戻したところでキミが魔王に何故拘ったのか、思い出せない可能性もある。
　それでも構わないかね？」

「構いません。」

「そうか、ならば以前約束したようにキミの感情を、キミに売ろう。」

　但し、と仮宿の魔王は笑う。

「以前買い上げた値段と同じ値段では売れないよ。
　キミは感情を失った身で商売をして、多くの資金を得た。
　立派な魔王になったんだ。
　私はキミを自立した一人の魔王として認め、対等の取引をしたい。」

「はい。覚悟はしてきました。」

「では…。」

　仮宿の魔王が提示した値段は、それはもう目玉が飛び出るような値段だった。

…
……
………

　目玉が飛び出るような。
そんな表現を使えるようになった代償に、感情を失った短い期間で稼いだ資金のほぼ全てを失った僕は、以前と同じ立ち位置に戻った。
資金もほとんど無い、どん底の貧乏魔王。
苦しみも哀しみも再び僕の元に訪れた。
閉口したのは飢えの苦しみだ。

感情を失っていた時はウウロノがしつこく注意してくれなければ食事も摂らずにいたけれど。
今の僕はお腹が空けば気分が滅入るし、不機嫌にもなってしまうのだ。
早くまた資金を稼がないといけない。
僕は次の店構えを考え始めた。

　以前と同じ立ち位置に戻ったと言ったけれど。
一つだけ大きな違いが有った。
それは、僕にも希望が見えていることだ。
こんな僕でも前に進めるんだぞ、そんな希望だ。
感情を失った身で稼いだ資金は無くなったけれど。
その経験は失われていない。

「だから、もう一度頑張るだけさ。」

　同意するようにウウロノが僕の肩に止まる。

………
……
…

　それは僕が今よりももっとちいさい時。
もう顔さえも思い出せない、それでも確かに僕のお母さんが…亡くなった時の記憶だ。

　哀しみ。
その感情がその微かな、それでいて大切な記憶を留めていた。
死に行くお母さんに僕は誓ったのだった。
立派な魔王になるって。

　ウウロノは死んだお母さんの魔力から生まれた僕の使い魔だった。