ENo.0172　テドレイユ

★遷移レベル：58
「申し訳ありません、申し訳ありませんテドレイユ様」
　木漏れ日の中、根を掴まれたアルラウネが引きずられて行く。
「わたくしめに何か落ち度があったでしょうか」
　アルラウネはすすり泣く。池のほとりで森の総意と出くわした次の瞬間には、こうなっていたのだから。
「貴方は何も悪くない。反省することなんてないのよ」
　手の力を緩めずに微笑むそれが、このサグジン樹海の総意テドレイユだった。アルラウネの瞳に当惑の色が浮かぶ。
「私はアルラウネを茹でたらどうなるか見たいの」
　樹々が開けた。低い丘に大鍋がある。
「うっうっ、カルヴァドス……」
　アルラウネは青空を見てアルラウネ幼稚園やアルラウネ小学校に通っていた日々を回想していた。アルラウネ中学校では友人アルラウネが不登校になり、彼女はそのこと自体よりも友人へのクラスメイトの心無い言葉に胸を痛めたのだった。アルラウネ高校の通学路にはよくスライムが湧いていて友人たちと子実体を摘んだものだった。そんな、アルラウネとしてありふれた彼女の人生が丘の上の鍋で終わろうとしている。このことに彼女の両親や友人たちはどんな反応を示すのだろう。アルラウネには想像がつかなかった。テドレイユ様はもともとそういうお方だから、ねえ？と諦観を込めて維管束の通った首を横に振るのだろうか。犬ラウネの餌を買っておけばよかった。一昨日商店の前を通るとき買おうか迷って買わなかったのだ。
「ごめんね、カルヴァドス」
　カルヴァドスそっくりな白い雲が流れている。テドレイユは手からエネルギーの球体を乱射している。鍋に近づいた牝鹿を追い払っているのだ。
「♪〜」
　森の住人たちが恐れてやまないテドレイユのハミングである。だが、このときはそれがアルラウネを救うことになった。カルヴァドスみたいな雲は崩れて消えたが、テドレイユのエネルギー球とは異なる空気の震え、大地の唸りがアルラウネの葉緑体を躍らせた。
「あらーサグジンじゃない。聞いてちょうだ〜い〜♪」
　丘を越え光の尾を引いて石が飛んでくる。ほとんど丸石だが前後に長い。石柱だ。
「そこの樹人、伏せろ！」
　森を鎮める者、サグジンが突っ込んでくる。アルラウネはできる限り体をねじり、草いきれに顔を埋めた。固く瞼を閉じてその瞬間に備えたが、何も起こらない。
「あらあら遊んでくれるの？」
　テドレイユは胸の前で両手を重ね、サグジンの突進をエネルギーの放出で相殺している。
「そんな技を覚えたのか……それより樹人」
　アルラウネはびくりと根を引いた。足首にテドレイユの手形がついている。
「早く逃げろ、俺の力でも長くは保たない」
　根を引きずりアルラウネは茂みへと這っていった。
「テドレイユ、お前なあ」
「♪〜」
「お前は経営者でさっきの樹人は従業員なんだよ。どこに従業員を食う経営者がいる」
「食べない。茹でるのを見るだけ」
「不毛過ぎるだろ」
　力の均衡は崩れつつあった。
「ん〜？」
　テドレイユは笑う。サグジンは一旦斜めに滑る形でエネルギー場の衝突から抜け出すことを考えた。だが加速中にテドレイユに捕獲される可能性がある。先週も似たようなことがあり、美しい川が干上がった谷になったのだ。離脱角度を計算しているとエネルギー幕の向こうに動くものがある。
「う、うわあああ！」
　逃げたはずのアルラウネだった。前腕を解いてツタにして、体を軸に振り回している。バネ状の腕の先にあるのは——岩だ。岩が弧を描き飛んだ。
「♪——」
　後頭部に岩が命中しエネルギー幕が千々に乱れる。サグジンは奔流から抜け出してアルラウネの側に着陸した。
「だ、大丈夫なんですか？」
「俺は平気だ。礼を言う」
「いえ、テドレイユ様です」
　テドレイユは両手を上げてうつ伏せのまま、動かない。余剰エネルギーが陽炎のように揺れる。
「寝てるだけだ。2日くらいは起きない」
　陽炎を透かして未使用に終わった鍋が見える。
「あの鍋な」
「はい」
「薪の用意が少な過ぎた。水を沸かすことすらできなかったろう」
　アルラウネは腕を手繰り寄せ、ため息をついた。カルヴァドスを連れて別の魔王のところに移住したくなった。
「名前は？」
「マリエルです」
　サグジンとマリエルは陽炎の放つ仄かな暖かさを受けながら何も言わなかった。この森ではよくある午後の風景だった。