ENo.0022　リーゼ

『第１週目　リーゼの一週間』



霧深い瓦礫の荒野が広がっている。
風ひとつ吹かないその領域では、どこもかしこも雪のようにうっすらと埃が浮かんでいた。
道なき道を歩けば、粉のようなそれがふわりと舞う。
霧の中で拡散するばかりのおぼろげな光を受け止めて、視界にその姿を白く映し出す。
しばらくそれを見つめていた誰かのため息で、偽物の雪がほんの少し舞い上がった。

「こうも埃まみれじゃあ、煙草と埃のどっちを吸ってるかも分かんねえな。」

大きなアーチを描いた残骸の傍で、噂屋はぼやいた。
元々は大きな門の姿をしていたはずのそれを見上げて、パイプに積もった埃を払う。
ただただ、亡骸のように朽ち果てた景色がそこにあった。
色彩も生命の音さえも失ったそこに、二人分の影が佇んでいた。

「……それで、《街》はどうだったの？」
「ああ。それじゃあ……、今回の報告を始めるとしよう。」

そう言って、おもむろに取り出したメモ帳をめくる。
瓦礫に腰かけた女は頷いた。雇い人と雇われ人の広すぎる隙間を埋めるように、その紙の擦れる音が霧の中でこだました。
気色の悪いほどに重なって、消えていくその音を待ってから、噂屋は調査報告を始める。

「まず、結論から言おうか。この《幻影の街》は先週と殆ど何も変わってない。」
「…………。」
「ここで俺が語らずとも、魔女様は全部知っているだろうよ。」
「……いえ。今もまだ、知らないことが沢山あるわ。」

依頼人、もといリーゼは乾き切ってくしゃくしゃに萎れた薔薇を、両の手の内側でくるくると回す。
その指先で遊ばれるたびに、かさかさと音を立てて、崩れて茎だけになったそれが手元に残った。
薄曇りの空よりもずっと鮮やかな青色を湛えていたはずのそれは、すっかり濁って枯れ果てている。
ずっと大事にしていたらしいものの、幻影の外側で正しい時を刻み始めた途端、すぐに朽ちてしまった。
青。《幻影の街》には存在しない色だ。
あるいは。幻影の中で生き続けた彼女にはまだ、それが青色に見えているのかもしれない。

「テオドールはどこ？貴方と一緒に《街》に入ったはずでしょう？」
「……ああ、そうか。お前はまだ知らなくて、ここで初めて知るんだったな。」
「―――いや、違うな。お前達は知ってたはずだ。俺は確かに《忠告》したぜ。」

「アイツは《幻影の街》に、《物語》の中に連れ戻されたよ。」

必ずどこかで起こり得る、あらゆる《可能性》の中から選ばれたひとつの結果が提示される。
《もしも》。散々使い古された言葉を指し示して、噂屋は埃まじりの煙を吐き出した。

「今までのこと。これからのこと。お前とあの《街》から逃げ出したことも、すっかり忘れた様子でいたぜ。」
「あげくの果てにゃあ、俺を狂人呼ばわりだ。いい加減飽きたぞ、この展開。慣れっこだけどよ。」
「……そうね、それなら。あなたの【予言】を信じておけば良かった。」

噂屋は首を横に振ってみせた。沈黙のまま、何がしかの言葉の代わりにリーゼを指差す。

「……その指はなに？呪殺のポーズ？」
「違ェよ。」

今度は自らの頭を指して、その人差し指でトントンと叩く仕草をしてみせる。

「書や言葉を焚くぐらいなら、真に焚くべきは人の記憶だ。」
「それなら、遺すべきもまた……人の記憶だ。」
「…………。」

それはリーゼにとって、あまりにも覚えのある言葉だ。
一度たりとも口から吐き出されたことは無いはずの、想像上の言葉。思考。価値観。

「言っておくが、俺は予言者じゃない。噂屋だ。」
「まあ、伝言者といったところか。他ならぬ『リーゼ』から、【お前】へと繋ぐためのな。」

そうして差し出したのは、インクと線で埋め尽くされた一枚の紙。
いつか見た光景のように、それを折り畳んで投げる。投げ落とした、と表現したほうが適切かもしれない。
事実、膝の上へと投げ落とされた古ぼけた紙ヒコーキを拾い上げると、リーゼはそれを開いた。
あまり一般的ではない言語で、暗号にも等しいそれで書かれた言葉。
小さく、細かく、虫が群がったようなおびただしい数の後悔で埋め尽くされたそれを見つめる。

「さようなら私」「こんにちは私」「あなたの目には何が見えている？」「まだ遅くない」
「この選択は過ちだった」「どうしてここまで来てしまったの？」「早く進んで」「死んで」「もうどうしようもない」
「逃げて」「前を向いて」「目を開けてはダメ」「もっと早く知っていれば」「知っていてもダメだった」
「今ここで死ね」「次の私に任せたいと思う」「ここに私達の幸せはない」「あの時立ち止まっていれば」
「助けて」「抗ってみせて」「今は奇跡を信じたい」「終わりの先を知りたいだけだったのに」「はじめまして」
「今も隣に彼がいるなら殺したほうがいい」「殺せ」「殺せなかった」「殺して」「今度こそ幸せを掴んでほしいの」
「殺さないと」「今はまだ殺せない」「いつか殺す」「ここで殺すな」「やり直して」「このまま先に進みたくない」
「私も連れ戻されることにした」「どうしてやり直させようとするの？」「ここで死んでも無駄」「悪魔がいるのよ」
「こんなことなら心なんて無くてよかった」「私にはこれを拒絶する勇気がない」「もうこれは必要ないと伝えて」
「殺してみたけれど殺す価値も無かった」「前へ」「行ってはダメ」「一人で生きるのは寂しいから」
「見なくていい」「きっとあなたじゃない」「これはあなた」「私は永遠を選ぶ」「もしも違う道があったなら」
「これで最後にして」「思い出して」「外側へようこそ！」「忘れて」「覚えていて」「あなたは誰？」

「優しい人には会えたのかしら？」「あなたの信じる神様がきっと見ているわ」

意味の有無さえ疑わしいそれを一通り読み終えて、リーゼはその文字列から視線を外した。
その合図を受け取って、しばらく静かにしていた噂屋は再びパイプから埃を払った。

「…………俺にその字は読めねえが、お前にゃ意味のある言葉なんだろうな。」
「…………ジャバウォッカ。あなたが本当に伝言者なら。」
「これは、もう必要ない。」

確かな声でそう言い放つと、リーゼは過去からの手紙を破り捨てる。
噂屋はもともと細い目をほんの少しだけ丸くして、頷いてみせた。

「その代わり、次の私に伝えてあげて。」
「……あるべき《終演》のありかを。」
「…………。」

噂屋は思案するように、そしてそれを誤魔化すようにぼりぼりと頭を掻いた。
砂なのかフケなのか埃なのかよく分からないものがはらはらと落ちる。

「しゃあねえなあ……。」

やっと、ぼやくように答えた。

「つまり、今回は【はじめからやり直し】でいいんだな？」
「……ええ。」
「私は少し……、進み過ぎたみたい。運命に抗おうとしたばかりに。」

リーゼは小瓶をひもでくくりつけただけの粗末なネックレスを外す。
少しの砂と、ひとつきりの貝殻が入っただけのそれは、本当に何でもなさそうな品だ。
それでも、それが彼女にとって、とても大事なものであることだけは見てとれる。
枯れ果てた薔薇と、死骸入りの小瓶。
噂屋はそれを見て、何度見てもガラクタ揃いだなあ、などと再認識しただけだった。

「物語というものは大抵、幸福の絶頂とその余韻の内に終わるものでしょう？」
「必要以上に語られるものでもない。終わりの向こう側を語れば語るほど、ハッピーエンドは崩れていく。」
「―――――私は、身に覚えがある。《終演》の言葉が落とされるべき場所を。」

立ち上がる。二人の隙間を埋めるように、数歩前へ。
その手に握りしめていた小瓶を、半ば無理やり噂屋の手の中へと押し込めた。

「どうか、あなたが。私達の一番幸せな《その時》に、終わりの言葉を届けて下さいますように。」
「私達の願った《もしも》が信じられる場所に。《可能性》が無限に広がっていた、あの場所に。」

噂屋は彼女に手渡された小瓶の中身を確かめる。
遠目で見るだけでは分からなかったその中身は、海の砂と小さなサクラガイの貝殻だ。
彼女はこの貝殻の名前を知っているだろうか。その名が冠する、植物の名さえ知らないかもしれない。

「全てが終わった後、私は沈黙の中を歩くの。」

「こうすれば、あなたはもう私の顔を確かめることさえできない」と、リーゼは囁く。
確かに顔は見えないが、なんてことはない。回り込めばすぐに確かめることができるだろう。
ただ、それは《部外者》にだけ許された特権なのかもしれない。

「言葉無き世界でなら。私はきっと、何にだってなれるはずよ。」
「…………。別れの言葉は必要か？」
「何も。」
「この《物語》の終わりはここじゃない。」


「……あなたが、叶えてくれますように。」

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