ENo.0254　惑乱する月齢の魔王『アルリアクルリア』

　MA-254号の衛星軌道離脱より1,000時間経過。

　通信復旧せず。

　レーダー反応なし。

　鏡面航法のポータル痕なし。

　引き続き原因究明、墜落方向の特定に当たる。


　ウサギの精神波を警戒すること。

　　　

液晶画面に映し出される文字の羅列を今再び読み返して宇宙航空局衛星保安管理局××氏はサイドテーブルの皿の上に並んだ青い三日月状の擬似アルコール錠剤を水なしで呑み下した。それが溶けるよりも早く胃の底に強い蒸溜酒をあおったような熱いプラセボが広がった。ウサギたちを監視し監督する彼のマインド・プロテクトはどれだけのアルコールにも酩酊することがない。彼は己の職務を憎んでいたし己から酔いを奪ったウサギたちを憎んでもいた。楕円状の対地同期軌道に縛られた月のウサギたちの大半は粛々と服役を続けているがどれだけ従順に似たしぐさを繰り返すとしても時おり気が触れたように、あるいは堪え切れずに無謀な時空跳躍を試みる。ウサギに手をつけられる純粋鏡面の手がかりは限られてはいても皆無ではない。とはいえウサギの精神汚染は彼のような専用のマインド・プロテクトを受けている人間には効果がない。多くのウサギが跳躍から7時間以内に、そしてほぼすべてのウサギが跳躍から21時間以内に捕獲されるのが通例だった。しかし衛星MA-254号に捕獲されていたウサギは明らかに衛星ごとの大規模な跳躍を行ったにも拘らず軌道離脱後1,000時間に至る現在もその消息を絶ったままでいた。彼は皿の上を手探りしたがとうに一日に許される薬物の摂取量を上回っていた彼咎めるべく腕に巻かれたウェアラブルコンピュータが振動した。彼は舌打ちしてみたび液晶画面に目を通した。外宇宙に跳躍したならウサギを回収することはできなかった。だがなんらかの仕方で彼らの監視をあざむき、今も遠くはない時空にいるのなら捕獲せねばならなかった。なにより事故の原因を突き止めなくてはならなかった。ウサギは生まれた月に縛られていた。月は惑星に縛られていた。その計算されプリセットされた精密な配置をかき乱すことはあってはならなかった。

「しかしすべては起こったのだ」

彼は苦々しくつぶやいた。すべてが起こったあとに宇宙は骨を折って秩序を回復する。やがて回復されるもののために傷をつける収支の不都合が彼の合理精神には不満だった。しかしそうした不満も舌打ちもアルコールのプラセボもほどなく霧が晴れるように消えた。彼のプロテクトされた精神は不調とその原因をすみやかに遠ざけ、彼は穏やかな落ち着いた眼差しで目の前に広げられた仕事を整理し始めた。

月世界。