ENo.0102　人で“なし”の魔王

男の口から緩く長く息が漏れた。天を仰いでみたものの、空っぽの天井は何も面白くはない。かといって目の前に視線を移した所で、天使球とかなんとかが自分を戒めてくる鎖しか目に入らない。

「……」

男の顔は死んでいた。
元々死んでいる、という話ではなく感情が死んでいる。摘発された瞬間から、溢れんばかりの狂気はウソだったのではないかという程におとなしく――否、やる気をなくしていた。

「はあ」

何回目かわからぬため息。だるそうに背を丸めて座りこんだ姿勢のまま、瞳だけがぐるぐるとあたりを見渡す。だが、囚われた場所から見えるものはなにもなかった。
大体、今日から自分が魔王で城の主だという事は理解したがこの世界が何を求めているのかはさっぱりわかっていない。今までの魔王の事など必要ないと思っていたのだ。その記録も記憶も引き継いでいるわけがない。

「……あ～」

ごめんなさい、と言うつもりはないがこのままではあまりにも暇がすぎて死んでしまう。すでに死んでいるのだが。もう一度だけため息を吐くと男は座った姿勢のまま右手を前にだした。そして、イメージをする。魔王領域に眠る過去の魔王の記憶と記録。その中から今の自分に必要なものを引き出す、そんなイメージを。

バサッ。

紙の束がめくれる音がすると同時につき出していた手の中に一冊の本が収められている。上手くいった筈なのだが男の表情が動くことはない。それどころか、一瞬眉間に皺を寄せた。

「魔術で大事なのはイメージ……ってか。くそっ、余計な事思い出させやがって」

悪態をつきながら手の中に収められた本を順にめくっていく。中に書かれているのはこの世界のあらましや、魔王が何をするべきなのかという事のみで、この城に関わっていたであろう魔王の事などは全く書かれていない教本めいた内容になっていた。
男はあぐらをかき、頬杖をつきながら足の上に置いた教本をぺらぺらとめくっていく。本の端から端までを舐めるように瞳が動き、ページをめくり、また瞳が動く、それを黙ってずっと一時間程続けていた。

「なるほどなあ」

一応、大体のことは理解した。城を組立て、迫る勇者を倒したり金を集めたりするといい、らしい。この天使球とかいうやつらの目を掻い潜るなり、こいつらに媚びるなりしながらうまいことやっていけばいい、らしい。
この世界の魔王は、王と名乗る割には大した権限もなくあるのは領域と魔法を扱う力のみといった所、らしい。
不満、不信、謎、全く無い訳ではないがそれを気にした所でしょうがない。自らの力でこの世界を抜け出す術がないのならばそれに従うしかない。
幸いにしてこの男は、そうやって人の中に混じりながら生きていく事が得意だった。人の生活に潜り込み、馴染みながら、時折人を喰う。喰わねば収まらぬ衝動のせいであり、この体を維持するためでもある。衝動で理性を失う事も、何もせずに朽ち果てていく事も今のところ男は望んでいなかった。
意味のある生ではないし、生と呼べる代物でも無い事は理解している。だが、それでも、死ぬのは惜しい、死ぬのは怖い。個を失う恐怖だけはもう味わいたくない。
男は大きく舌打ちをすると読み終えた本をバン、と両手で叩くように挟んだ。すると、本がするすると手の中へと消えていく。
とりあえず当面の、目の前の問題の解決策も理解した。天使サマのご機嫌を取ればいいだけのことだった。自由を奪われるのも好きではない。今の時間は嫌なことばかり思い出してしまう。できるだけ、捕まらないようにしながら、好きな事をする為にはどうするべきか。この何もできない時間にもう少しだけ考えを巡らせる事にした。