ENo.0196　毛皮の無い白狼の魔王

玄関を潜ったカラは眉根を寄せた。
食餌の気配が無い。だというのに、カロスが反応しなかったからだった。
彼は戦う以外に何の能も持たない。いや、戦闘という技能と欲求に他の要素が押し潰されて排斥されていると言った方がより精確だろう。それは行動の全てに反映される。相手に害意があろうがなかろうが、その体は動くものに反応し、襲い掛かるに最適な位置取りを求めて身を移す。
意図してかそうでないかは知れないが、カラはそういったカロスの習性を好ましく思っていた。だからこそ、他の獲物も無いのに行動を起こさない彼を訝しんだ。



疑問の氷解は早かった。
テーブルランプに照らされたダイニングで、黒く小さな背中が、逆光の中テーブルに噛り付いていた。
ガリガリと黒石を紙面に擦り付ける音が響いている。
初めて見る光景にカラは目を丸く見開いたまま硬直していたが、３秒きっかりで衝撃から抜け出した。
カロスの小さな背中へと、覆いかぶさるように身を寄せる。

「読み書きができるとは知らなかったわ。随分と整った字を書くのね。」
「そのうちできなくなるだろうけどね。昔は便利だったから、『使えるようにした』んだ」
「どう役に立つのかしら。私との時は使ったように見えなかったけれど。」
「意味が無いから。カラに挑むやつなんていないよ。意思を共有する必要が無いなら、こんなもの何の役にも立たないよ」

得心がいった。
カロスは戦闘にあらゆるものを利用する。常に最大の結果を希求する。何かを記すというのはその一環なのだ。意思疎通による戦術の共有。相乗効果。戦略の構築。
つまり、これもひとつの戦いの手段なのだ。
伝わる相手を手足のように駆使する。
従う相手を、手足のように使い潰す。
成程、便利だったろう。かつて彼が率いた一族は、最早一人も残ってはいないが。

「ニュアンスはわかるけれど、文字の意味がわからないわ。貴方は何を記したの？」
「あ……そっか、カラは読めないよね」
「ええ、時代が違い過ぎるもの。私はちょっと前までのしかわからないわ。いいから教えなさい、直ぐに解くから。」
「禁忌選定委員会の連中が発信してきたメッセージを、理解できるように省略したものだよ。あのレヒルっていうのは何故か言葉の端々に奇妙なノイズがまじっていたけど、彼の率いる者たちと戦うことになるのは間違いない」
「読めるようになったわ。」
「えっ」
「驚くようなことじゃないでしょ。書いてあることがわかれば、後は置換と代入で読めるようになるわよ。」
「……便利だね」
「貴方みたいに後付けじゃないもの。」

そりゃそうか、と言って頭を掻こうとしたカロスの手を抑え、カラはその黒い短髪の頭を撫でた。

「レヒルの自信の根拠は読めないけど、アンデライト相手に商売をやれば、乗り込んでくるだろうね」
「しょうがないわよ。私も貴方も、そういう訳のわからない連中に親の仇のように追われるジンクスがあるもの。」
「それも『誓約』のひとつなのかもね。結局、僕らのやってきたことはカラの逸話のまねごとだし」
「で、貴方は反対なの？アンデライト相手の商売。」
「まさか」

カロスの手が、脇に押しやっていた紙束を卓上に広げた。

「あら、感激」
「僕は戦うことしか知らないからね。カラがどうしてたか、わかる範囲で書いてた」

カロスが留守番するようになってからの、カラの営業の記録だった。
いくらか穴もあり、乱暴な戦闘用語で置換されてはいるが、大筋網羅できていると言って差し支えなかった。
その端に、アンデライトと記された大群の図が記された紙があった。

「アンデライトの連中が本気で金を出すなら、今回を逃すのは最悪だ。回収するなら、こいつらからだよ」
「全面的に同感ね。でも、その後の禁忌選定委員会はどうするの？」
「こいつらに働いてもらう」

黒石で、アンデライトの大群を小突いていた。

「構想を聞かせて？」
「うん。カラは、戦いがカネになるって言ってたでしょ？アンデライトは、それにカネを払うって明言してもいる。カネを払って、モノを受け取らないんじゃ片手落ちだ」
「断然同意見ね。」
「文無しになってもらう。その上で、最低限戦えるくらいになってもらう」
「それで、禁忌選定委員会相手に立ち回らせる。まあ、面白くはあるわね。」
「面白くないよ。あいつら、弱っちいから」